【第1部】記念写真では飽き足らない──許しの先でほどける二人の輪郭
七年前の春。
僕は27歳の制作会社のディレクター、彼女――ミナは26歳の営業職だった。
はじまりは些細な偶然で、共通の友人が開いた食事会。まっすぐな笑顔と、少し遅れて届くまばたきのリズムに、僕はあっけなく惹かれた。
付き合いは穏やかで、日々は穏やかすぎた。
ミナは仕事帰りにプールへ通い、肩甲骨のあたりが水の抵抗で研がれてゆく。週末に友人たちと行った海で、砂を蹴るたび彼女の影は細く長くなり、褒め言葉に照れ混じりの笑みをこぼした。
その「美しさ」をいつか確かに残したくて、僕は使い慣れない一眼レフを買った。けれど、レンズ越しの世界は思うほど素直ではない。シャッターを切るたび、僕の欲は露出オーバーになり、写真はすぐに白くとんでしまう。
ある夜、雑誌の片隅に「読者モデル募集」を見つけた。
謝礼や撮影の条件、掲載面の小ささ――どれも劇的ではないのに、胸の奥に火の粉が飛び込んできた。無数の視線に触れる彼女を想像した瞬間、僕は自分の中に眠っていた衝動を知った。
「今、撮られたら綺麗だと思う」
そう告げると、ミナは笑って首を傾げ、「記念になるなら」と、数日おいてから静かに頷いた。
撮影は、街の北側にある小さなスタジオで行われるという。
壁は白く、窓は高い。夕方の光が斜めに落ち、埃が金色に漂う。その空気を想像するだけで、舌の裏に甘い痺れが広がった。
僕は決めていた。口を出さない。立ち会うなら、ただ“見る人”でいる。彼女に「撮られること」を贈り、僕は「見ること」を受け取る。
そうやって、二人の輪郭を一度ほどき直してみたかった。
【第2部】光に触られる身体──シャッター音の合間に芽吹く予感
約束の時刻、僕たちはスタジオのドアを押した。
出迎えたのは、年齢の読めないフォトグラファーの男――城戸。言葉少なに「今日は、光がきれいです」とだけ告げ、ミナに柔らかな羽織を手渡した。
音楽は小さく、古いピアノの独り言みたいに流れる。ライトが温まり、空気がわずかに乾く。白い背景紙の前に立つミナは、最初こそ背筋に硬さを宿したが、シャッター音が三度刻まれる頃には、呼吸がレンズのリズムに合ってきた。
城戸は、触れない人だった。
ただ、光を調整しながら言葉を置く。「そこ、少しだけ目線を落として」「肩を一枚、空気に預けて」
ミナは言葉の意味を探すように、視線の角度を微差で変え、肩先から溶けるみたいに力を抜く。
僕はソファに腰を下ろし、視界の端で二人の距離を測る。近くも遠くもない、写真のための厳密な距離。けれど、シャッターの間(ま)が少し伸びるたび、室内の温度はゆっくり一度ずつ上がっていく。
衣装を変える。
藍色のシャツドレスは、光を受けるとわずかに肌の色を引き出し、鎖骨の辺りが水際のように淡くなる。
城戸は「綺麗だ」と短く言い、ミナの立ち位置をカメラ一台ぶんだけずらす。何度目かのフラッシュのあと、背景紙に落ちる影がやわらいだ。
その瞬間、僕の胸に奇妙な安堵が広がる。撮られている彼女のほうが、僕の知っている彼女よりも、少し強く見えたからだ。
休憩の合図。
ミナはスタジオの隅で水を飲み、額の汗を指で押さえた。僕が近づくと、彼女は唇の端だけを持ち上げ、「緊張するね」と囁いた。
「きれいだよ」と答えると、彼女は一瞬だけ目を伏せ、また顔を上げた。
もう一度、撮影へ。
今度は窓辺。薄手のカーディガンに着替え、背を向けたまま振り返る動作を繰り返す。光は優しく、でも残酷で、ミナの戸惑いも、決意も、ためらいも、等しくすくい上げる。
シャッターの隙間に、微かな吐息――それは疲労であり、解放であり、まだ名のない高ぶりの予兆でもあった。
【第3部】まなざしの温度が上がる夜──触れない手、ほどける輪郭、言えない言葉
夜が近づき、窓からの光が薄くなった。
城戸は柔らかい間接照明に切り替え、「最後に、息の長いカットを」と告げる。
ミナは深く息を吸い、ゆっくり吐き、首筋の力を手放した。
シャッターは数を減らし、かわりに沈黙が増える。沈黙は、やさしい。沈黙は、残酷だ。そこに在るものを、在るまま浮かび上がらせてしまうから。
僕は思い出していた。
最初の夜、ミナが不器用に僕の手を握り、「怖いのは、あなたに嫌われることだけ」と言ったこと。
今日ここで彼女は、他人のまなざしに身体を預ける決心をした。僕は、その決心を信じる決心をした。
二つの決心は、触れそうで触れない距離に並び、ゆっくりと同じ体温になっていく。
「もう一枚」
城戸の声が低く落ち、ミナがわずかに目を閉じる。
ライトが呼吸を覚えたみたいに、彼女の輪郭を撫でる。襟元は整えられ、足元は静かに揃えられている――露わにしないための品位は、むしろ想像を呼吸させる。
視線、喉の上下、手の甲の緊張。
露骨なものは何一つないのに、室内の温度だけが確実に上がっていく。指先が熱を帯び、舌の裏に甘さが溜まり、胸骨の裏側にかすかな痺れが灯る。
ミナの吐息が長く伸び、角のスピーカーが小さな音で震えた。
「ありがとう」
城戸がカメラを下ろした。
ミナは小さく会釈し、視線だけ僕のほうを盗み見る。そこには自慢も媚びもなく、**“知ってほしい”**という願いだけが素直に残っていた。
僕は立ち上がり、彼女と向かい合う。
「綺麗だった」
彼女のまぶたが震え、次の瞬間には、制服みたいに馴染んだ笑顔が戻ってきた。
帰り道、夜風は薄く、街路樹の葉は低く鳴った。
信号待ちのあいだ、ミナが囁く。「見られているって、怖いね。でも、嫌じゃなかった」
僕は頷く。誰かに見られた彼女は、僕の知らない「強さ」を身につけ、同時に、僕だけが知っている「弱さ」を守り通していた。
「また撮られる?」
問いは、嫉妬ではなく、祈りに近かった。
ミナは少し考えて、「うん」とだけ答えた。
その短い返事の温度は、僕の掌に長く残った。
まとめ──触れないで、深く触れるために
この夜、僕たちは学んだ。
“触れない”という選択は、欲望を消すためではない。むしろ、より深く触れるための距離を丁寧に測る行為だ。
レンズは、露骨を拒み、品位を守る。だからこそ、呼吸の長さや視線の湿度といった、目に見えない温度差が、ページの余白にしっかりと焼き付く。
ミナは「撮られること」で輪郭を新しくし、僕は「見ること」で彼女の中心に近づいた。
露わにしなかったものほど、長く残る。
あのスタジオで上がったまなざしの温度は、今も僕らの生活のどこかで、静かに体内時計を進め続けている。

コメント