雨音に溶けた罪──触れてはいけない隣人を愛した夏の記憶

【第1部】触れてはいけない温度──夕立の街で

僕は高橋圭介（36）。
職業は建築設計士。
東京都の端、三鷹の静かな住宅街で独り暮らしをしている。
仕事は忙しいが、心はどこか乾いていた。
設計図の線のように、感情を整理して生きているつもりだった。

その隣に住むのが、小野美沙（34）。
夫は海外赴任中で、家には彼女と小学3年の娘だけ。
朝、出勤の準備をしていると、
ベランダ越しに洗濯物を干す彼女の姿がいつも目に入る。
陽の光を受けて、白いシャツが風に揺れるたび、
僕はなぜか、言葉にならないざらついた感情に襲われた。

七月の終わり。
空が泣き出しそうな午後、突然の夕立が降った。
美沙さんの家の前で車が立ち往生していた僕は、
玄関先で彼女に傘を差し出された。
「ちょうどよかった、上がっていってください」
その一言が、雨音の中で妙に柔らかく響いた。

靴を脱いで上がると、畳の香りと、どこか甘い匂いが混じっていた。
部屋の奥では、扇風機が静かに首を振っている。
濡れた髪をタオルで拭く美沙さんの横顔を見て、
僕はなぜか視線を外せなかった。

「本当に助かりました。傘を借りるなんて、子どもみたいですね」
そう笑う彼女の頬を、一筋の髪が滑り落ちた。
外では雨が激しさを増していたが、
その音さえ遠くに感じるほど、
部屋の中の空気が、静かに熱を帯びていた。

あの雨は、ただの通り雨ではなかった。
時間を滲ませ、境界を溶かすような長い雨だった。

美沙さんはカーテンを閉めながら、
「しばらく止みそうにないですね」と呟いた。
その声は、静けさの中で雨音に吸い込まれていった。
僕は頷くだけで、何も言葉を返せなかった。
返してしまえば、何かが壊れそうで。

彼女は湯気の立つマグカップを差し出した。
ハーブティーの淡い香り。
その指先が少し震えていたのを、僕は見てしまった。

「雨の音、好きなんです。……落ち着くから」
そう言って笑う横顔を見ながら、
僕の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
遠くで雷が鳴る。
その一瞬の光の中で、
彼女の瞳が僕を見ていた。

視線が絡んだまま、
どちらも動けなかった。
外では雨が激しさを増し、
屋根を叩く音が、部屋の呼吸をかき乱す。
空気が重くなり、
体の輪郭が曖昧になっていく。

彼女の髪から、まだ雨の匂いがした。
その匂いが、
なぜか胸の奥の記憶を呼び覚ます。
誰かに触れたことのない部分が、
確かに疼いているのを感じた。

「……この雨、いつ止むんでしょうね」
美沙さんの言葉は、
まるで助けを求めるようでもあり、
何かを誘うようでもあった。
その曖昧さに、僕は息を呑んだ。

外の世界は完全に閉ざされ、
部屋の中だけが、ゆっくりと濡れていくようだった。
触れてはいけないと分かっていながら、
その距離が一滴ずつ溶けていく。
──雨音の下で、
僕たちの理性は、静かに崩れ始めていた。

雨が上がったあと、
街は濡れたガラスのように光っていた。
あの日の出来事は、
記憶の奥に沈んだまま、
いまも呼吸をしている。

美沙さんは、
あの夜のことを一度も口にしなかった。
けれど、次に顔を合わせた朝、
玄関先で交わした「おはよう」が、
いつもより少し長く響いた。
そのわずかな間に、
僕たちは確かにあの日の熱を思い出していた。

風が吹くたびに、
彼女の家のカーテンがふわりと揺れる。
その布の向こうに見える影が、
何度、僕の心を乱したことだろう。
──誰も知らない場所で、
誰にも届かない想いだけが、
いまも熱を持ち続けている。

罪は、冷めない。
むしろ、時間が経つほどに甘く、
痛みを伴って香り立つ。
夜、机に向かって図面を引いていると、
ふとペン先が止まる瞬間がある。
その度に、
あの雨の匂いと、彼女の声が甦る。

「この雨、いつ止むんでしょうね」
あのときの一言が、
いまも僕の心のどこかで繰り返されている。

あれから季節が変わり、
蝉の声が消え、木々が色を変えても、
彼女の家の前を通るたび、
胸の奥がわずかに疼く。
それはもう、恋でも情欲でもなく、
ひとつの祈りのようなものだ。

僕は知っている。
触れてはいけないものほど、
人は深く惹かれてしまう。
その罰を、僕は静かに受け入れている。

欲望は消えたあとにこそ、
最も深い形で残る。
それは記憶となり、
罪となり、
やがて生きるための熱に変わっていく。

雨音の下で生まれたあの瞬間は、
誰にも見せられないけれど、
確かに僕を変えた。
それを「愛」と呼ぶには、
あまりにも脆く、
あまりにも熱かった。

それでも、
人は誰かの温度を思い出すことで、
今日を生きていくのかもしれない。